4月の2〜4の3日間、父と友人と福島県に行ってきました。
ペンションや、復興センター、飯館村の本を出版したデザイン会社や、農家で、お話を聞いたり、泊めていただいたりしました。
とにかくご飯がおいしくて、グルメではないけれど、(どうやら)食いしん坊らしい僕にとって、食事の時間はとても楽しみでした(笑)
「ふくしま県産」というと、放射能との関係がすぐに挙げられますが、生産者や料理人の方達の、食の安全への配慮はとても高いものでした。高精度な検査はもちろん、いろいろな工夫を「安全でおいしいものをつくる」という強い信条のモト行っているのです(絵などの作品づくりでもそうですけれど、「良いモノをつくる!」という意識は何においても大切で、そういう気持ちで作ると「良いモノ」は必ずできるのです)。
山の景色も大変美しいものでした。
流れて行く雲や、それらが影を落とす広大な田畑。
遠くでなくウグイスやキジの声。
うっすらピンクがかってきた桜のつぼみ。
夜には満点の星空。
転がっているイノシシのうんこ…
なんだか泣きそうなくらいすばらしく、「描きたい!」意欲をそそられるのでした。
とても貴重な体験でした。
快く、お話をしてくださった皆さん、泊めてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
さて。
とてもおいしいご飯や、美しい景色のウラにあるものを、僕たちは考えなくてはいけないと思うのです。
お話をしてくれた親切な人々が、いま置かれている状況と、そのような状況下に置いている政治のこと。
美しい景色には常に「放射能」という心配事がつきまとっていて、その原因は何だったのかということ。
それが正しいかどうかは、まず置いておいて、知って、考えて、自分の意見を持ち、それらを話合うことは、今まで以上に必要なのだと思います。
こんにちは。ここ(下田・南伊豆町)ではどういう訳か福島産の野菜が流通していないんです。
もし仮に風評に左右されているのなら非常に寂しい・・です。
特に三陸の若布はかってうち((株)小関商店)でも卸し販売をしていたので、品質の良さはよく知っています。
「風評」というのも、実際は「知らなければいけない」事を知らないがゆえに発生してくるのだと思います。
地元(福島県やその周辺)の人も「知ってほしい事」が伝わらず、「とんでもない事」が噂になっている今の状態にはほんとにやるせない気持ちでしょうに・・・。
こんにちは。
確かに、改めて感じましたけれども「風評被害」(また、他のことでもそうですけれど)を産み出している要員の大きな部分は「知らない」コトかもしれませんね。
生産者の方達が「工夫をしている」のは、アタマの中でコトバにはなっていても、それがどんな工夫で、どんな想いでやっているのかというのは、なかなか「理解する」までいきません(特に後者は今の世の中だと割と軽視されがちな気がします)。
放射能についても、地上に一様に降り注いだ訳ではないので、福島県でも高い地域とそうでない地域がありましたし、実は千葉だってホットスポットが何カ所かあるのです。
基準値を下回っていても、低線量被爆の話もありますし、本当に安全なのかは正確なところ誰もわからない部分がありますよね。
海に関しては、地上とまた違った条件で汚染されていたりするでしょうし。
つくる側も受け取る側も、いろいろと考えなければならない世の中になってしまったのは事実でしょうね…
そして、繰り返し申しますと、そういう状況をつくったのは何なのか、これからどうすればいいのか(災害への対策、本当の責任者への賠償はもちろん、食べ物の購入の選択の仕方や、風評被害にあっている方達に具体的に何ができるのか、も)、を考えねばなりませんね。
今朝のニュースでも報道されていましたね。
「関東地方のスーパーでも、福島産の野菜・等はまだまだ、消費が伸び悩んでいる」と・・。
他県産の野菜とともに店頭に並ぶからには、それなりの数々の厳密な検査をパスしてきたはずなのです。
だからこそ店頭に並ぶのであって・・・その辺の想像が出来ないのかな?・・日々の情報の洪水でそれが阻害されているのか・・?
何に関してもそうですが、「考える」というのは起こったバラバラな出来事を結びつけて出来あがった「仮説」(これは何通りもある)のなかで現在のところ一番確からしい事を絞り込んでいく作業であります。
ですから物事を「線」で捉えなければダメなんですね。
然るに、現在の「報道とバラエティーが合体したような」番組の影響か、センセーショナルなトピックス(すなわち「点」)に対して何らかの「感想」という事が「考える」という事だt思っている人が増えているような気がします。
ぼくはかなり最近、マジメに政治について勉強し始めました。
日本国憲法に何が書いてあるのか(9条と25条くらいは習いましたけれども)、など今まで知らなかったコトもたくさんありましたが、「知っていたけど、どういうコトかわからなかった」コトもたくさんありました。
後者の例でいくと、Yacchannさんの言う「線」で考えるコトをしていなかったからかもしれません。
それぞれ「知識」として、「点」で存在していたものの、それがしっかり結びついていなかった。なので、その「点」同士を歴史の流れという「線」で繋いだ時、「ああ、なるほど!」と理解できたのだと思います。
「感想」と「考える」の違いも、恥ずかしながら最近ようやく、なんとなくわかってきた気がしますね。
併せて気がついたのですが、その「考える」という行為は、作品制作と同じようなプロセス(描きたいモノについて、調べて知識を得、それらを統合して、何らかのカタチで表現して…)を踏んでいるような…
生活上のデキゴトを「考える」重要度も、制作上のアイデアを「考える」需要度も、割合でいうと同じくらいを占めている気もしました。