ロクでもねぇ「男社会」なんざ、縛り倒しちまいなよ!
…という内容です。
男尊女卑がまだまだ蔓延する世の中で、「男」としての自分はどういう立場をとるべきか…を考えました。
「女性の大変さ」を男が話そうとすると、説明文っぽくなる気がしませんか。
なんとか事を理解しようと脳みそをフル回転させているが故の結果である…ということは、どうかご理解いただきたいのですけれど、結局、それは当事者性に欠けていて、想像の範囲を脱することができない気がしていました(それに比べて、女性側から発信される意見はもっと率直で明快です)。
そんな中、「ホワイトリボン運動」というのが、ものの本に紹介されていました。
男性から発された運動なのですけれど、「女性に対する暴力を『振るわない』『許さない』『沈黙しない』を主軸にその撲滅に取り組む」世界的なキャンペーンなのだそう。
そのひとつの概念として「フェアメン」(常に「対等」な態度で接する人)というものがありまして、これを読んだ時に、「女性の大変さ」というところでは真に同じ土台に立てないかもしれないけれど、「個人の平等」という立場からは心置きなく一緒にたたかうことができるんではないか…と閃いたのでした。それが、今作では「男社会」を象徴したゾンビキングを縛り上げてる白帯になっております。
もちろん、「女性」に対してでなく、「性別」という属性で分断され差別されていることに対して、「平等」を象徴するものです。
ところで、一口に「男社会」といいますけど、全ての男性が「等しく」優遇されているのか…というと、「そうではない」ということは、男の口から申し上げておきたい。
昨今のジェンダー運動の中では、しばしば男性たちが「男」として一括りにされることがありますが、それはいささか乱暴な議論です(その括り方は、女性がする場合もあるし、男性側からされる場合もあります。白状すると、自分もそういう視点に立ってしまうことがあります)。
「男社会」が男にとっても有害なのは、そのモデルとされている「男」像が「強者」に設定されていることです(ゾンビキングの戴く冠では、たくさんの蛇が絡まりあって頂点を争っています)。それはもしかしたら、「権力」に置き換えられるかもしれません。「男社会」というのは、「性別の違い」から生じたのではなく、その本質は「強者が権力を獲得・保持するために創り出したシステム」なのかも…という考え方は飛躍しすぎでしょうか…
ジェンダー平等のたたかいの中で、外に弾き飛ばされた「弱い男たち(本質的な人の強さのことではありません。「男社会」という創られた概念の中で、その立場に追いやられた人たちのことです)」は、行き場を失ってしまうわけで、それはとてもとても苦しいことです。
そこで、この不平等な世界に対してのたたかい方をもうひとつ提案させてください。
それは、「男性が男性の大変さを語る」ことです。
おっと、気をつけなくてはいけないのが、「女も大変っていうけど、男も大変なんだよ」というように、他の属性と比べないで語るということです。
男性側から「男性の大変さ」というのはあまり話されない気がしませんか。
自分もあまり話したことない気がするし、男同士の会話でもほとんど見聞きした経験がないです…
自分の場合、「困った時は相談してね」といってくれる優しい人たちが、周りにかなりいるにも関わらず、いざ相談しようとすると何を相談したら良いのかわからなくなったり、ものすごく遠慮がちになってしまったりします。
「自分の話をする」というのは、時にとても勇気のいることですが、その困難や勇気を共有することは、ロクでもない男社会を壊すために、男側ができることのひとつだと思います。
ながながと書いてしまいましたが、まとめると、
シスジェンダーで、ヘテロセクシャルの男性たちがすべきことは、
「男」社会で被ってきた、自分の生きづらさや、悩みに真摯に向き合うこと。
それをきちんと伝えること。
その生きづらさや、悩みをベースに、他者の被ってきた理不尽を理解しようと想像力を発揮すること。
暴力と、不公正を許さない立場で、差別に立ち向かう人々と連帯すること。
ではないでしょうか。
最後に予断ですが、タイトルは映画『THE MEN IN BLACK』をもじりました。
黒スーツに身を包んだ2人1組のエージェントが、地球に来たエイリアンと戦うお話。
今作でも、二人のMENがたたかっているのは、そういうパロディです 笑